またまたカンボジア 8 ・ 血塗られた歴史 S-21トゥール・スレン
プノンペン市内にあるS-21は、政治犯収容所の暗号名であります
稼働中は存在そのものが秘密だったため、正式名称はありません
現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれており、トゥール・スレン虐殺博物館として一般公開されています
S-21はもともと高校だった建物を利用し政治犯収容所としていましたが、やがて拷問・虐殺の舞台へと変っていきました
2年9か月の間に20,000人収容され、ここから生還できたのは12名だけだそうです
入場料は外国人は6ドルで、ガイドレシーバ―付きです
それぞれのポイントで詳しい解説が日本語で聞く事ができます
ちなみに言語は15か国に対応しています
元々は高校だった建物をそのまま利用し、プノンペン市内各地にいくつかある政治犯収容所の中心的役割を担ったのがここS-21だったそうです
やがてS-21に集約されると、生きては出る事ができない収容所へと変貌していったそうです
ポル・ポトが進める社会主義国家に反対する反革命分子を尋問し暴く事が目的でしたが、革命が成功したのに飢餓から抜け出せないのは反革命分子が居るからだと言う被害妄想に看守たちが残虐行為で応えていきます
拷問を受ける収容犯は、苦痛から逃れたい為に看守たちの欲している答えを言い、拷問の責め苦から逃れて行ったそうです
拷問の責め苦から解放されると言う事は、すなわち処刑されると言う事であります
S-21に入るとすぐに14基の白い墓碑が目に入ります
これはS21が発見された時、無残な姿で亡くなっていた方々に慰霊の意を表しているそうです
鉄のベッドに足かせ、実際に使われていた物です
校庭の鉄棒やブランコなどの遊具もそのまま拷問用の器具として使われています
逆さ吊りにされ、糞尿が溜まっている壺に頭から入れる拷問が行われていました
これは独房ですが、やがて手狭になると2人収容していたようです
鉄の鎖付きの足かせをはめられ、少しでも動くと鎖の音がし、勝手に動いたと言う事で厳しい拷問を受けたそうです
また、トイレ用の小さな箱がありましたが、少しでも粗相すると自分の舌で床がキレイになるまで舐めて掃除させられたそうです
どれほど酷い拷問だったか上手くお伝えできませんが、左下の絵のように体を拘束し手首を固定し、指先をペンチで潰していく
あるいは女性を全裸で拘束し、乳首をペンチで潰しつつ、恥部にムカデを這わすなど陰湿な拷問が行われていました
S-21の指揮官は共産党員がなり、看守の多くは10代の少年少女だったそうです
同じカンボジア人で、しかも10代の少年少女が酷い拷問を行う
信じられない事ですよね
しかし驚く事にここS-21の秘密を守る為、拷問を行っていた10代の多くの看守達も後に収容・処刑されるのでした
S-21に収容されると有罪と決めつけられる→その後処刑される→その秘密を守る為他の囚人も有罪にして処刑する必要があった→有罪に処刑するため更に激しい拷問が行われる
この繰り返しで拷問はますますエスカレートしていき、結果としてほぼ全ての人が粛清の名のもとに処刑されていきました
拷問に耐えられず亡くなった人はS-21の裏に埋められ、生き残った人は前回紹介したチュエク大量虐殺センター・キリング・フィールドで処刑され埋められました
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201811article_13.html
亡くなられた方々の一部の写真です
かなり若い方も含まれていて、一様にその表情は絶望に満ちた顔をしています
もう一度言います、20,000人収容され、生き延びる事ができた方は12名です
ドイツ政府による援助で新しくできた記念碑です
ここで亡くなった方々の名が刻まれているそうです

ボキャブラリーが少ないので上手く自分の言葉でお伝えする事ができませんが、なぜこんな酷い拷問が同じ民族間で行われたのかと言う疑問が残りました
指示に従わなければ自分達が殺される、政権の意向に沿った結果が出なければ逆に自分達が粛清される
その恐怖と洗脳により拷問は激化し、人を人とも思わぬようになっていき酷い拷問をしていったのでしょうね
しかし最終的には酷い拷問を行っていた看守も粛清の対象となっていくとは、何とも皮肉なものです
やはりこれらは狂気の沙汰としか思えず、人間の所業では無いと言うのが率直な感想です
前回紹介したキリング・フィールドも、ここトゥール・スレンにも日本人見学者は一人もいませんでした
中国人や韓国人らしき人もほとんどいなく、ほぼ欧米人ばかりでした
アンコールワットや有名な遺跡を見るのも良いですが、できる事ならばこのような負の遺産も見て頂きたいと思います
そして自分の目で見た事を、少しでも多くの人に伝えていくのが見学した人の務めではないかと思います
現在日本のツアーではこの2か所がコースに含まれている事はほとんどありません
でもプノンペンに来たならば是非見学していただきたいと思います
かなり過激な内容だったり、ショッキングな事が多いですが、今からたった40年ほど前に起こった事です
戦争関連など負の遺産を見学する事で、平和のありがたさや尊さを再認識できると思っています
稼働中は存在そのものが秘密だったため、正式名称はありません
現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれており、トゥール・スレン虐殺博物館として一般公開されています
S-21はもともと高校だった建物を利用し政治犯収容所としていましたが、やがて拷問・虐殺の舞台へと変っていきました
2年9か月の間に20,000人収容され、ここから生還できたのは12名だけだそうです
入場料は外国人は6ドルで、ガイドレシーバ―付きです
それぞれのポイントで詳しい解説が日本語で聞く事ができます
ちなみに言語は15か国に対応しています
元々は高校だった建物をそのまま利用し、プノンペン市内各地にいくつかある政治犯収容所の中心的役割を担ったのがここS-21だったそうです
やがてS-21に集約されると、生きては出る事ができない収容所へと変貌していったそうです
ポル・ポトが進める社会主義国家に反対する反革命分子を尋問し暴く事が目的でしたが、革命が成功したのに飢餓から抜け出せないのは反革命分子が居るからだと言う被害妄想に看守たちが残虐行為で応えていきます
拷問を受ける収容犯は、苦痛から逃れたい為に看守たちの欲している答えを言い、拷問の責め苦から逃れて行ったそうです
拷問の責め苦から解放されると言う事は、すなわち処刑されると言う事であります
S-21に入るとすぐに14基の白い墓碑が目に入ります
これはS21が発見された時、無残な姿で亡くなっていた方々に慰霊の意を表しているそうです
鉄のベッドに足かせ、実際に使われていた物です
校庭の鉄棒やブランコなどの遊具もそのまま拷問用の器具として使われています
逆さ吊りにされ、糞尿が溜まっている壺に頭から入れる拷問が行われていました
これは独房ですが、やがて手狭になると2人収容していたようです
鉄の鎖付きの足かせをはめられ、少しでも動くと鎖の音がし、勝手に動いたと言う事で厳しい拷問を受けたそうです
また、トイレ用の小さな箱がありましたが、少しでも粗相すると自分の舌で床がキレイになるまで舐めて掃除させられたそうです
どれほど酷い拷問だったか上手くお伝えできませんが、左下の絵のように体を拘束し手首を固定し、指先をペンチで潰していく
あるいは女性を全裸で拘束し、乳首をペンチで潰しつつ、恥部にムカデを這わすなど陰湿な拷問が行われていました
S-21の指揮官は共産党員がなり、看守の多くは10代の少年少女だったそうです
同じカンボジア人で、しかも10代の少年少女が酷い拷問を行う
信じられない事ですよね
しかし驚く事にここS-21の秘密を守る為、拷問を行っていた10代の多くの看守達も後に収容・処刑されるのでした
S-21に収容されると有罪と決めつけられる→その後処刑される→その秘密を守る為他の囚人も有罪にして処刑する必要があった→有罪に処刑するため更に激しい拷問が行われる
この繰り返しで拷問はますますエスカレートしていき、結果としてほぼ全ての人が粛清の名のもとに処刑されていきました
拷問に耐えられず亡くなった人はS-21の裏に埋められ、生き残った人は前回紹介したチュエク大量虐殺センター・キリング・フィールドで処刑され埋められました
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201811article_13.html
亡くなられた方々の一部の写真です
かなり若い方も含まれていて、一様にその表情は絶望に満ちた顔をしています
もう一度言います、20,000人収容され、生き延びる事ができた方は12名です
ドイツ政府による援助で新しくできた記念碑です
ここで亡くなった方々の名が刻まれているそうです
ボキャブラリーが少ないので上手く自分の言葉でお伝えする事ができませんが、なぜこんな酷い拷問が同じ民族間で行われたのかと言う疑問が残りました
指示に従わなければ自分達が殺される、政権の意向に沿った結果が出なければ逆に自分達が粛清される
その恐怖と洗脳により拷問は激化し、人を人とも思わぬようになっていき酷い拷問をしていったのでしょうね
しかし最終的には酷い拷問を行っていた看守も粛清の対象となっていくとは、何とも皮肉なものです
やはりこれらは狂気の沙汰としか思えず、人間の所業では無いと言うのが率直な感想です
前回紹介したキリング・フィールドも、ここトゥール・スレンにも日本人見学者は一人もいませんでした
中国人や韓国人らしき人もほとんどいなく、ほぼ欧米人ばかりでした
アンコールワットや有名な遺跡を見るのも良いですが、できる事ならばこのような負の遺産も見て頂きたいと思います
そして自分の目で見た事を、少しでも多くの人に伝えていくのが見学した人の務めではないかと思います
現在日本のツアーではこの2か所がコースに含まれている事はほとんどありません
でもプノンペンに来たならば是非見学していただきたいと思います
かなり過激な内容だったり、ショッキングな事が多いですが、今からたった40年ほど前に起こった事です
戦争関連など負の遺産を見学する事で、平和のありがたさや尊さを再認識できると思っています
この記事へのコメント
ホロコーストが一般的には史実として語られていますが、カチンの森、通州事件など、世に虐殺と言われるものは数多いですが、近現代史のなかではポルポトが最悪ではないかと思われます
まさに狂気で、消化しようにも消化し得ないような気がします
偽善者ぶる訳ではありませんが、せっかく海外に行くチャンスがあったのだから、教会も良いですが、負の遺産こそ自分の目で見て、感じて、何か意見と言うか考えるべきだと思っているんです
なぜ負の遺産を?と聞かれると自分自身でも明確な答えを言えませんが、興味本位ではありませんが、もしかすると人間が過去に行った酷い事を見聞きし、あらためて平和のありがたさと共に自分の現状に満足し、感謝する機会が欲しいだけかもしれません
おっしゃる通り世界史の中には色々な虐殺がありましたが、恥ずかしながらカチンの森や通州事件についての知識はほとんどありません
ホロコーストにしてもアウシュビッツなどへは行ってないのでイマイチ実感がありませんが、ベトナム戦争証跡博物館、今回のポル・ポト関連、あるいは広島の原爆関連はわりと最近行ったので印象が鮮明に残っています
どれも悲惨で比べるのはどうかと思いますが、陰湿な方法と言うか、残虐な手段を用いた点でポル・ポトの大虐殺が最悪の様な気がします
またなぜ自国民をここまで苦しめる事ができたのか理解に苦しみますよ・・・
たぶん、全員が、何か、異常な心理状態にあったのだろうとは思いますが。
もし、自分が、この時期に、この場所にいたなら、どうしてただろうとも思います。
果たして、苦しんでいる人を、また拷問することができたのだろうか、或いは、拷問される側で、その拷問に耐えることができただろうかと。
でも、答えは分かりません。
しかも同じカンボジア人同士ですからね・・・
そう、特殊な心理と言うか、異常な心理状態に陥っていたんでしょうね
拷問・虐殺をしなければ、自分達がやられると言った強迫観念もあったのかもしれませんよね
自分だったらできたか?
たしかに戦争で他国と戦うならなんとなくできそうですが、同じ国の人を陰湿な拷問したりは普通はできませんよね
まして拷問に耐えるなんて、想像しただけでもうダメですよ・・・
非常に重くて辛い場所ですが、やはり私も機会があればこちらへ行って見てきたい思います。人間の狂気の歴史を少しでも体感して自分なりに考えたいからでしょうか。
写真やレポートから、決して忘れてはいけないという思いが伝わってきます。その通りですね。多くのカンボジア人もそう思っていることなのだと信じています。
でもカンボジアへ行ったならば、絶対見なければと思っていました
それが3回目のカンボジアでようやく実現しました
このような狂気の沙汰を繰り返さない為にも、多くの人が見学に訪れる事が大切だと思いました
カンボジアの方々も、このような悲惨な出来事を乗り越えて頑張っているからこそ、すごいパワーが湧いているんでしょうね
こういう状況がそれほど遠くない過去に実在したというのは。
想像するだに恐ろしいです。
経済体制はどうあれ、政治的には独裁国家、全体主義国家でのみ起こる現象ですよね。
短絡的ではありますが、機能不全であろうと、コストがいかにかかろうと、民主的な体制が尊重され、上に立つ者が常にバランス・オブ・パワーで牽制されているということが国民の安寧のためには必要なのかな、と思わざるをえません。
きっと特殊な状況下において、異常な心理状態だったのでしょうね・・・
ポル・ポトの恐ろしいところは、いずれここで拷問を行っていた看守たちも処刑してしまうのですからね
まぁ独裁国家は自分の言う事を聞かせる為、このような凶行に出る事が多いですよね