またまたカンボジア 7 ・ 血塗られた歴史 キリング・フィールド

1975年のポル・ポト政権樹立後の4年間で、人口800万人のうちの300万人もの国民が虐殺された事をご存知でしょうか?

今から約40年前の出来事です

その虐殺の舞台となった一つが、チュンエク大量虐殺センターです

カンボジア3回目にして、ようやくチュンエク大量虐殺センター、カンボジア最大のキリング・フィールドに来る事ができました

いたずらに見たいと言う事では無く、カンボジアを訪れたからには人として見なければならない施設だと思っていました


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キリング・フィールドとは、ポル・ポト政権下による大量虐殺が行われた刑場の俗称です


まさに血塗られた負の遺産であります


上の写真はキリング・フィールド内にある慰霊塔であります


ここチュンエク大量虐殺センターは、カンボジア内に300あるとも言われているキリング・フィールドの中で最大かつ最も有名な刑場跡になります


ここは次に紹介する政治犯収容所S21、いわゆるトゥール・スレンに付属する刑場として造られました




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外国人の入場料は6ドル、日本語ガイドモニター付きです


ガイドモニターは15か国語に対応しています


ポイントとなる場所に番号があるので、その番号を押すと詳しい解説を聞く事ができます


ただこれが重いんです、物凄く重くて聞くに耐えない悲惨な内容なんです


ではなぜ大量虐殺が起こったかを簡単に説明します



ポル・ポトは人口の8割が貧困にあえいでいる状況を打破する為に、純粋な社会主義国家にしようと考えました

貧困の原因は都市住民のせいと考え、教育を受けていない農村部の青年たちで軍隊を組織しました

そしてすべての人々に信仰文化を捨てさせ、クメール・ルージュ「ポル・ポトの軍隊」に服従洗脳していきました

クメール・ルージュの秘密警察であるサンテバルは、知識人・伝統文化継承者・教師・宗教関係者などを反革命的な者と見なして次々と殺害しました

後には、クメール・ルージュの地方機関や事業所の幹部までもが反乱の恐れ有りとして殺害されていきました

ポルポトは「農民こそ英雄である」という信念があった為、農民の支持を得て国を制圧しようとして町に住むような人や、教育を受けた人達を反逆者とみなし処刑していきました


クメール・ルージュとは、かつて存在したカンボジアの政治勢力および武装組織であります

民主カンプチアにおけるカンプチア共産党とサロット・サル(ポル・ポト)による独裁体制を支え、民主カンプチア崩壊後はカンプチア人民共和国やカンボジア王国への抵抗を行った勢力の総称です


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これがポル・ポトです

ポル・ポトはエリートコースを歩み、フランスに留学もしています

留学中に共産主義に傾倒していき毛沢東を崇拝していったそうです

帰国後に教師になり、教師仲間で革命理論を推進し、やがて社会主義国家を樹立しようと考え、大量虐殺につながっていきます




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ポル・ポトは農業こそ国の礎と考え、国を建て直すのを手伝ってほしいと都市部に住むいわゆる知識人と呼ばれる人々に訴え、それに賛同した人々が農村部に集められたそうです

そして国を再建しようと集まった知識人を大量虐殺しました

また、メガネを掛けているだけで知識人と見なし、ここチュンエクに連れてこられ処刑されたそうです

ここに着いた日に一人づつ毎日300人ほど殺されていきましたが、処刑を待つ間は労働を強いられていました

また、事務手続きが追い付かない為、処刑される人が自らの処刑許可書にサインをする事もあったそうです



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これはキリング・ツリーと呼ばれている虐殺に使った木であります


当時財政的に厳しかったので、武器を使わずに殺すために赤ん坊の頭を木の幹に打ち付けて殺害したそうです


この施設が発見された当時、木の幹に脳みそがこびりついていたり、まわりに飛び散っていたそうです


赤ん坊は母親の手から奪われ、その母親は多くの兵士から辱めを受けた後殺されたそうです




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ガラスケースには子供の服が入っています


ポル・ポトの考えとして、殺すなら一族郎党殺して根絶やしにしなければいつか復讐されると言う考えがあったため、幼い子供から女性まで容赦無く殺されていったそうです


また、大量の遺体が出る為そこらじゅうに穴を掘って投げ込みましたが、腐敗によるガスが発生し、そのガスで土が盛り上がり、悪臭が酷かったそうです


その為食べ物にDDTを混ぜて食べさせ、腐敗臭を防いだとも言われています





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武器や銃は貴重だった為、斧や農機具などで頭を叩いて殺害したそうです


カンボジア人による自国の大量虐殺、信じられますか?


国民800万人のうちの300万人と言われていますが、正確な人数は分からないそうです


今から約40年前の出来事だったとは信じられませんよね





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慰霊塔には2万柱の御遺骨が納められているそうですが、まだまだ土に埋まったままの御遺骨も多いそうです


キリング・フィールドも次に紹介するトゥールスレンも、ほとんどツアーには組まれていません


見たい方は個人的に訪れるしかありません


でも、カンボジアに来たならば是非ともここに来て、わずか40年ほど前にあった事実をあなた自身の目で見てほしいと思います


簡単ではありますが、キリング・フィールドについての説明とさせていただきます







自分はただ海外旅行や国内旅行をお気軽に楽しんでいる訳ではありません

若い頃勉強してこなかったので、訪問国の歴史について学びたいと思っています

特に現地に行かなければ分からない、負の遺産を見る必要があると思っています

負の遺産を見る事によって、平和の大切さが良く分かるからです

ベトナム戦争証跡博物館や広島平和記念資料館など、多くの人に見てほしいと思っています

また、各国の指導者たちは見る義務があるとも思っています


広島平和記念資料館
https://yukemuri-manpuku.at.webry.info/201807/article_8.html

知覧の特攻会館
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201202article_10.html

長崎原爆資料館
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201306article_23.html

ベトナム戦争証跡博物館
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201506article_14.html
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201506article_15.html
https://yukemuri-manpuku.seesaa.net/article/201506article_16.html

この記事へのコメント

さすらいnurse
2018年11月25日 08:57
とても よく
まとめておられ 非常に勉強になりました。恥ずかしながら 「大虐殺」「ポル・ポト派」というワードを 知ってる位の 無知さです。しかも ごく最近 40年前の真実とか 衝撃です。
2018年11月25日 14:05
さすらいさんお久しぶりです
お元気でしょうか?
いえいえ、自分も全然知りませんでした
だからこそ、何としても見学したいと思っていました
今回1日観光を放棄し、自力で虐殺の舞台となったキリング・フィールドとトゥール・スレンの2か所を見学する事ができました
300万人とも言われる自国民の虐殺は衝撃でした
もしプノンペンへ行かれるチャンスがありましたら、是非見学される事をお奨めします!

ころっと話は変わりますが、重い話の後はいつものお気楽旅に戻りますので、是非遊びに来て下さいね~
2018年11月26日 05:20
地獄ですね。人がこの世で作った地獄が現実にそこにあったのですね。あまりにも悲しい過去です。
2018年11月26日 07:45
虐殺の歴史は世界のアチコチでありましたが、なぜここまで残酷な事ができるのか理解できませんよ
二度と繰り返してはいけませんね・・・
2018年11月26日 21:09
始皇帝にしても織田信長にしてもかなりのことをやっていますが、如何せん遠い昔の話ではないですものね
狂信的な考えと独裁者ならではの猜疑心が重なり合ってことようなことになったのでしょうか

常識では考えられないことですが、今でも中東あたりでさまざまか事が起こっていることを考えると、やはり平和を願わずにはいられません
2018年11月26日 22:46
おっしゃる通りで、まさに狂信的な考えと、独裁者ならではの猜疑心がこのような虐殺に結び付いたんだと思います
しかし自らこの施設を見学せねばと思ったのですが、内容が強烈過ぎて考えさせられましたよ
人間の所業とは思えぬ蛮行の数々、まして同じ国の国民が手を下すのですからね・・・
やはり平和のありがたさ、尊さがを痛感しました
2018年11月29日 01:44
ここは行ってみたいところです。
実際に、見ることが、やっぱり大切だと思うのです。
映像とかでは見たことがあるのですが、実際見ると、感じ方も違ってくるのだろうなと思います。
2018年11月30日 06:56
楽しい所だけ見るスタイルの方も居ますが、自分はこのような施設も見るべきだと思っています
信じられないような蛮行で見聞きするのが辛い部分もありますが、このような辛い時期を乗り越えて今のカンボジアがあるのだと分かります
2018年12月08日 01:02
ポルポトの所業は説明が難しいですね。
社会主義国家の建設の必然的帰結であるとは思えません。
何がそこまでの憎悪を生んだのか。
複合国家での民族対立や宗教対立なら少しは理解できる気がしますけど。
それから、ナチスによるホロコーストに比べて、世界の記憶に残るところが少ないのは何故か?
そこも心に引っかかります。
思い当たることはなくもないのですが。
すみません、すっきりしない書き方で。
2018年12月09日 02:06
一言で言ってしまえば臆病だったのではないでしょうかね?
反対勢力に狙われる
狙われる前に殺してします
その一族を全て殺さなければ、いつか血縁者に復讐される
そんな事が脳裏にあり、大量虐殺につながったような気がします
最後の方は自分側に付いている人間まで手に欠けるのですから、もはや誰も信じられなくなっていたんでしょうね

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