ベトナムの旅 18 ・ ベトナム戦争証跡博物館 (前編)

ベトナム戦争証跡博物館、それは人類の負の遺産「ベトナム戦争」の悲惨さを写真やパネルを使ってリアルに伝えています

ここはかねてより訪れたかった場所で、大袈裟に言えば人間として見ておかなければならないと言う思いが強くありました

今回ホーチミンに来た一番の目的は、ここに来るためでした・・・

※ このページにはショッキングな画像や悲惨な画像が多数掲載してありますのでご注意ください


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ベトナム戦争証跡博物館です


証跡とは、後々の証拠となる痕跡と言った意味があります


すなわち後世まで戦争の悲惨さを伝えるための博物館と言う事になります


ひめゆり平和祈念資料館、知覧の特攻平和会館、長崎原爆資料館など国内の戦争関連の施設はいくつか見学しました


今回あまり日本は関係無いようなベトナム戦争ですが、沖縄の基地から米軍の爆撃機が出動したり、ベトナム戦争特需と言った経済効果をもたらし、その恩恵を享受したうえで成り立っている現在の日本


一言では到底言い表せませんし、ましてや勉強不足の自分がベトナム戦争を語るとか、平和について語るのはおこがましいのですが、自分が感じたままを伝えられたらと思っています・・・










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ベトナム戦争証跡博物館の入場料は、わずか15,000ドンです(約90円)


日本円にして100円にも満たないのは、一人でも多くの人にベトナム戦争の事実を知ってほしいからこそだと思います


館内は全て撮影OKです


かなり悲惨な写真、ショッキングな写真、グロテスクな写真も多く、もちろんアノ有名なピューリッツァー賞を受賞した写真も展示してあります










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建物のまわりには戦車や戦闘機、投下された爆弾が展示されています









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1Fにはベトナム戦争に反対する、当時の日本の様子を伝える写真も展示してあります








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ここでもう一度簡単にベトナム戦争について説明します


ベトナム南北統一を目指したホーチミン率いる南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と、南ベトナム政権を支援するアメリカとの戦い、これがベトナム戦争です


でもなぜベトナムは南北に分断してしまったのか?


そう言った背景が分からないと全体像が見えないし、分断する以前はどうだったのかって事にありますよね



第二次世界大戦以前、ベトナムはフランス領インドシナ連邦としてフランスの植民地となっていました

第二次世界大戦が勃発するとドイツの快進撃もあり1940年6月にはフランスは降伏、日本軍がフランス領インドシナ連邦に進駐

ですが最終的には日本は敗北し、その日本の敗北をうけ1945年9月、北部にホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟がベトナム民主共和国として独立を宣言

この独立を認めたくないフランスは南部に傀儡政権を建国、傀儡(かいらい)とは操り人形のことで、フランスの操り人形のような国を作りホーチミン率いる北ベトナムと争うことになります(第一次インドシナ戦争)

この戦いは8年続いたがフランスの敗北に終わり、そして1954年7月にジュネーブ協定により北緯17度線を境にしてベトナムは南北に分断されました

南ベトナムは国名をベトナム共和国としますが、政権内部は汚職まみれで、国民は不満だらけです

ベトナム共和国がそんな感じなので北ベトナムは、武力による統一を試み南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成し内戦が勃発

ソ連が支援する北ベトナムが勝って、東南アジアが共産化する事を恐れアメリカは、1961年ジョン・F・ケネディ大統領はは南ベトナムに4000名の特殊部隊を派遣することを決意しました



現地のガイドさん曰く、その頃アメリカはベトナム進出を企てており、本当はベトナムの資源を狙っていたのだと話していました


1963年ケネディ大統領暗殺、政権はジョンソン大統領へ移ります

ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大し、1965年アメリカ軍が大規模な北爆を開始します

ちなみに太平洋戦争で受けた日本の爆撃は15万トンと言われ、ベトナム戦争で投下した爆弾は250万トンを超えるとも言われています

森林などを焼き尽くす目的で使われたナパーム弾は40万トン、枯葉剤は確認できただけで8万3600キロリットルが散布されたと言われています

その他クライスター爆弾や対人地雷なども使用されました

参考までにベトナム戦争でのアメリカ軍の死者数は約45,000人、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)約850,000人、ベトナム共和国(サイゴン軍)約170,000人とも言われ、第3国軍と民家人合わせると最大300万人が亡くなったとする報告書もあるようです

ちなみに韓国軍による9,000人とも言われる住民の虐殺、レイプなどの残虐な行為があったのもまぎれもない事実です

アメリカ軍は最大50万を超える兵力を投入するもジャングル内では物資や食料の供給が困難で、実質3割ぐらいの稼働率だったそうです

残念な事に、南北ベトナム人同士が戦ったと言うのもまぎれもない事実です

激しい戦闘は約10年続き、1975年のサイゴン陥落でベトナム戦争は終結しました









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「戦争の恐怖」と題されたこの写真ですが、有名なので皆さんご存知だと思います


ベトナム戦争時の空襲(ナパーム弾)で背中にひどい火傷を負いながら裸で逃げる9歳の少女で、1973年、ピューリッツァー賞を獲得しています


実際にこの写真の前に立って見た時に、戦争の悲惨さはもちろん人間の愚かさ、犠牲になるのはいつも女性や子供などの民間人、そんな事を考えるとなんとも暗い気持ちになり、涙があふれてきました









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今回ベトナムに来る前に「ハーツ&マインズ ベトナム戦争の真実」と言う記録映画を見たんですが、この映像よりもはるかにショッキングな写真が展示してあります


こちらに展示してある写真で、どうしても紹介したいものがあります


少し長くなり過ぎたので、その辺は次回あらためて紹介します

この記事へのコメント

2015年06月17日 15:50
本当に戦争って。。。尋常じゃない
何故こんな酷いことが出来るのか?
言葉で表現しきれない怒りと悲しみが溢れてきます

ゆけむりさんの涙が。。。といのが解ります
子供達の恐怖と悲しみの表情が心に痛いです

私の尊敬する人は心こそ大切だと言われています
そして世界に友情を広げることだと。。。

本当に争いのない平和を願ってやみません
2015年06月17日 21:55
おっしゃる通り、戦争は尋常ではありません
ハッキリ言って正気の沙汰ではありませんし、高度な知恵のある人類が取る行動ではないと思っています

ただ、この現実から目を背けてはいけないし、このような悲惨な記録を見る事で今後このような過ちを侵さない事が大切だと思います・・・
2015年06月17日 23:41
考えてみるとベトナムは他国から支配されてきた時期が長く、
ベトナム戦争という地獄のような時代を経て、
今の形になったのですよね。
元々、精神的にも肉体的にも強い国民が国づくりに注力している今、ベトナムが急速に発展するのは当然だと納得させられた思いがします。

それから、正面切って取り上げ難い内容をブログにUPしてくださって、
考える機会を与えてもらい、ゆけむりさんに感謝の気持で一杯です。
2015年06月18日 05:54
ベトナムは二毛作、地域によっては三毛作と言うぐらい肥沃な大地&気候です
米の輸出は世界第1位だし、石炭をはじめとする鉱物資源も豊富です
細長い国土は海に面していて海洋資源にも恵まれています
そんな豊かな資源があるから他国が侵略してきてんでしょうね・・・

勉強不足の自分が偉そうにベトナム戦争の事を取り上げるのはどうかと思ったんですが、ベトナムと言う国を語る上でどうしても避けられない話だと思いました
批判的な意見もあるかと思ったんですが、こんぺいと殿からそんな風に言われるとアップした甲斐がありました
2015年06月19日 14:59
改めて個々の家族や親類の悲しみにも想いを致すような写真ですね
良い戦争というものがある訳もなく、にも拘らず現在に至るまで様々な事が起こっているのが現実でもありますね、恐らく最適解と言うのはないのでしょうね

展示ではUSサイドのものもあるのですね
貴重な展示館ですね

しかし、改めてWW2では南北とか東西とかに分断された国が多かったのですね
日本もそのような事が言われており、それでも現実感なく過ごしてきましたが、こういう各国の状況を見ると、日本は不幸中の幸いだったのかもしれませんね
もちろん北方四島問題などがその名残りとして今も続いているわけではありますが
2015年06月20日 06:50
人類が誕生してから、常に争いがあったのも事実
もしかすると、人間とはそういう生き物なんでしょうかね?
戦国の世は身内はおろか、親子でもうかうかしていられなかったんですからね
第2次世界大戦がもたらした影響ははかりしれないですよね
東西ドイツは統一したとは言え、かなりの問題が残っていますしね・・・

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